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京繡は、平安遷都と共に、刺繡をするための職人を抱えた縫部司(ぬいべのつかさ)が置かれたのがはじまりとされています。(織部司の説もある)
その時々において、宮廷貴族から武士、財力を持った庶民までを対象に、時代を経るごとに繡仏や曼荼羅、様々な衣装の加飾へと変わっていきました。
政治や経済の影響を常に受けながらも、千数百年の今日まで脈々と伝わってきました。華麗で雅な刺繡の持つ豊かな風合いは、絹糸のやわらかな光沢とともに現在もなお、私たちの生活に輝きを放っています。

 

  • 奈良時代以前(〜710)

西暦五世紀頃、仏教の伝来とともに中国より繡仏の技法伝わる。
推古11年(603)聖徳太子、冠位十二階を定めて服制に刺繡をとり入れる。
推古30年(622)橘大郎女、聖徳太子の冥福を祈るため「天寿国曼荼羅」(中宮寺)を作らせる。
現存する最古の刺繡作品。

  • 奈良時代(710〜)

天正7年(735)吉備真備、唐から多くの繡技法を持ち帰る。この頃、ようやく民間の一部にも繡技が普及し始める。(それまでは縫部司などで国家の事業として行われていた)
この頃、各地の諸大寺に多くの繡仏が祀られるようになる。「刺繡釈迦説法図」(山科勧修寺)など。
鎖繡が廃れ始め、平繡が技法の主流となる。繡の和風化の始まり。

  • 平安時代(794〜)

繡仏が衰退し、繡の中心は貴族の衣装、特に女子の十二単に移る。
繡は中国の影響を放れ、日本の繡として完成する。

  • 鎌倉時代(1192〜)

浄土教の台頭とともに、繡仏が再び盛んとなる。「刺繡阿弥陀三尊像」(西念寺)、「刺繡三昧耶幡」(兵主大社)など。
尚武の精神の高揚、武具の発展とともにその装飾として太刀の平緒や刀剣の柄装などに刺繡が施される。
また、繡糸も平糸からより華麗な感じを与える撚り糸が主となる。
民間に刺繡が大いに普及する。

  • 室町時代(1392〜)

能狂言の成立とともに、その装束に華麗な繡が施される。
また、前代から引き続き、個人の信仰を対象として礼拝用の繡仏が盛んに作られる。

 

  • 安土桃山時代(1573〜)

時代的風潮をよく表わした、細部に拘泥しない大らかな描写の繡を施した桃山小袖が流行する。
また、繡と摺箔、繡と絞り染など、他の技法と併用したものが盛んに使われる。
代表的作品として、「百合御所車模様縫箔」(東京国立博物館)、「黄色唐綾地桐菊三ツ盛紋繡道服」(豊国神所)などがある。

 

  • 江戸時代(1603〜)

商人の台頭とともに、繡糸に金糸、銀糸を使い多彩な色素を用いて繡の主体性を発揮した絢爛豪華な美服が流行するが、たびたび幕府の奢多禁止令が発せられる。

 

  • 明治以降(1868〜)

伝統的な衣類などのほかに、壁掛や屏風など絵画風の繡が作られる。
主な作品として、「野菜果物図」(赤坂御所)、「黄海海戦図屏風」(宮中)などがある。

 

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